narrative voyage ~旅と今ここを見つめて

多様な世界を感じるままに。人が大切な記憶とつながっていくために。

My Days in Aotearoa ~ニュージーランドで季節労働者になる

 

2005年にニュージーランドに滞在していたことを、前回の投稿で触れた。

 

ワーキングホリデーという、日本国籍を有する18歳から30歳までの人なら

取得できるビザで行ったのだが、

観光、就学、就労ができる特別なビザです。

どこに滞在しても、どこを旅行しても、仕事をしても、

語学学校に通っても良いという素晴らしい自由度の高いビザです。

(日本ワーキングホリデー協会サイトより)

 

と、18年経った今も説明されている通り、

本当に自由度の高いビザだった。

 

ビザ申請時に50万円かそれ以上の預貯金の残高証明を

求められたりはあったが、本当に人それぞれで、

中には家族の口座の残高証明を提出し、実際は最低限の貯金と航空券で入国、

とにかく現地でガッツで働く、というツワモノの女子もいた。

 

ニュージーランドへの永住のために、最初から資金を貯めて渡航

情報収集や地元の人たちとのつながりをきっちり作り上げながら、

さらに現地職業訓練校への留学を経て、数年かけて永住権取得を

叶えた友人もいる。

 

そういう人は、私が現地で知り合った人の中ではわりと特別な例だと思う。

 

おおかたのワーホリメーカー(ワーキングホリデー滞在者)は、

日本である程度働いてから、やっぱり一定期間、海外に出ておきたくなって、

20代後半になって飛び出してくる、という印象だった。

 

生まれてこの方、海底をずっと泳いできたが、深呼吸をしたくて、

水面に出てきた魚のように―――

 

それは私自身も例外ではなかった。

20代前半で一度、オーストラリアでワーホリ生活をしていたけれど、

30代を目前に、ここでまた新しい空気を吸っておかなくては、

と思っていた。

 

ニュージーランドに移住したい思いまではなかったが、

このビザを、対象年齢から外れてしまう前に、使わない手はない。

そして、現地には「おいでよ」と言ってくれている人たちがいた。

私も思い切って、飛び出した―――

 

オーストラリア時代に一度遊びに行ったとき、泊めてくれた現地の温かな老夫婦。

東京での知り合いのパーティで出会った、クリエイティブな若い友人たち。

 

ニュージーランドワーホリ滞在の、最初の2ヶ月ぐらいは

オークランドとその近郊で暮らす彼らを訪ねて、泊めてもらいながら、生活した。

11月から12月。

現地の季節はちょうど春で、見るもの食べるもの和らいでいた。

 

だけど、友人たちの世話になり続けるのは、肩身が狭く感じられ、

やんわり「そろそろ仕事をしたいから」と、彼らの元を離れた。

 

今から思うと、できる仕事の当ても特になかったが、

オークランドを離れた私は、いきなり南島に移動する、という手段に出た。

まずは、自分がまだ見ていない地域を見てみたらいい、と思ったところが

あったのかもしれない。

 

北島の主要都市はオークランドと、首都ウェリントン

南島はクライストチャーチクイーンズタウンを挙げる人が

ほとんどだと思う。

 

でも、私はどうも主要都市には居つかなかった。

南島は最初、クライストチャーチあたりまで行ったのだが、

花と緑と高級住宅的な、きれいすぎる街並みに、写真を撮る気も

起きなかった。

 

そのあたりで、おそらくバックパッカーユースホステルなどに泊まり、

宿のインターネットで仕事を探した。

もしくは、そういった宿の壁によくある、リアルな掲示板の張り紙だったような気もする。

南島のさらに南で、求人募集があるのを見つけた。

 

南の街ダニーデンからさらにクイーンズタウンへ向かう途中にある、

名前を初めて聞く町。

 

そこで、“フルーツパッキング”のスタッフを募集しているという。

 

ニュージーランドキウイフルーツだけでなく、ワインの元になるぶどうをはじめ、

日本でもおなじみのりんごFUJIも生産する、果物王国なのだが、

その時は、チェリーの収穫が始まって大忙しのようだった。

 

応募には電話をかけたのかメールをしたのか、もはや記憶がない。

とにかくあっという間に話が決まって、その内陸の町へ向かったことだけは覚えている。

 

 

"フルーツパッキング”とは何か、あまり深く考えずに応募して、

そして面接というよりは“顔合わせ”か“挨拶”という程度で、

職務経験を問われることもなく、決まったのだが、

始まってみると、何だか陽気な仕事だった。

 

ベルトコンベアで流れてくるチェリーを分別する。

サイズと傷み具合を見ていたのだと思うけど、あまり厳しい基準もレクチャーもなく、

とにかくやってみてよ、というスタンスだった。

 

ベルトコンベアの作業に並ぶ面々は、人里離れて田舎なのに

なぜかとてもインターナショナルだ。

 

私はそこで人生初めて、チェコ人とチリ人に出会ったし、

カナダ、タイ、日本からのメンバーもいて、いつもそこには笑いがあった。

友人と共にオークランドに居たときより、なぜか気心知れる感じさえした。

 

今こうして記事にして、おそらく10数年ぶりに思い出したのが、

地元のキーウイ(ニュージーランド人)のおばちゃんたちの存在だ。

工場の作業では、彼女たちが、甲高いのんびりしたニュージー英語

(そしておそらく土地の方言込み)で、時々思い出したように指示を出す。

 

ちょっと気の周る男子メンバーたちは、よくおばちゃんたちの目を盗んで、

チェリーを投げあってコミュニケーションを取ったり、訳ありチェリーを

ささっと頂戴したりした。

自分の小学校時代もここまで楽しかったかどうかと思う、平和さがあった。

 

しかも、その工場が寮のような平屋の家を持っていて、

こちらも給料天引きなどで週何ドルかは払ったのかもしれないが、

一つ屋根の下で、同僚たちと共同生活というのもおもしろい体験だった。

 

私とカナダ人の女の子以外は、全員男子だったが、みんないい奴で

チリ、タイ、日本出身という顔ぶれも楽しかった。

 

週末休みの日には、みんなで日曜洋画劇場的なTV番組でサスペンス映画を見たり、

近くの川に涼みに行ったり、釣りのまねごとをした。

 

庭で私が絵を描いていると、誰かがギターを弾いたり、

自然とバーベキュー状態になったりして、

気づくと強い南半球の陽ざしのもと、かなりな日焼けをしたのだった。

 

良く晴れた日に、白くあがる砂煙と、ありがたい緑の木陰。

 

セントラル・オタゴと言われるエリアで、乾いた土地に、

ダニーデンから入ったスコットランドあたりからの入植者が

こしらえたのかもしれない町だった。

 

町にはいま思うと、キオスク的な小さな商店があるぐらいで、

週末誰かの運転で、隣町へ行かなければ自炊の材料も十分な野菜も買えない。

 

携帯電話はかろうじてあったけれど、確かテキスト受信だけだったし、

今みたいなネット環境もない。

 

仕事もチェリーから、リンゴ、あともう一種類ぐらいのフルーツに変わり、

季節労働で、シーズンが終わればみんな解散だ。

 

それでも、今日もタイ人の弾くギターの音が聴こえ、

おしゃべり好きなチリ人が、若い日本人相手に彼なりの人生論を展開し、

カナダの子がきれいな歯並びを見せて笑う。

チェコの二人もやって来て、歌が始まりそうだ―――

 

みんながいて、毎日元気だったらそれでよかった。

 

昔はよかった、と浸りきる自分でいたくない。

でも、はっきり書いておこう。

 

紛れもなく、あの日々はきらきらしていた―――