narrative voyage ~旅と今ここを見つめて

多様な世界を感じるままに。人が大切な記憶とつながっていくために。

この空の向こうに⑩ ~高校時代とヴェネチアに橋をかける友

 

台風の気圧に圧倒されながらの、6月のスタート。

なぜか、高校時代の友人との時間と旅の記憶が

思い出されたので、書いてみたい。

 

ーーー記憶が始まるのは、高校を決めるときから。

その頃には私は、海外への憧れがあり、

交換留学制度のある私立も考えたが、結局、地元の県立高校に収まった。

 

ブラスバンド部の活躍ぶりに興味を持ったが、

体育会系な雰囲気に気後れした。

そして、クラスの中で楽しい友人たちに出会えて、

結局、彼女たちと共に“帰宅部”になったのだった。

 

人との出会いは、時に、場所を選ばないのかもしれない。

 

川沿いにあって、陽当たりと風通しだけは抜群の、

平和極まりないその県立高校で、

たった1年、同じクラスだった3人の友人———

 

三人三様に大人びていて、他の子たちと違う、独特な育ち方をしていた。

それぞれ私の人生のページに個性的な足跡を残していったし、

今になってみると、当時の私の、これからこうなりたい、

と描いていたイメージを、さらにカラフルに色づけてくれた存在だった。

 

映画を見たければハガキを書く

 

友人Yは、年の離れたお姉さんの影響で、ちょっと気取った

話し方をしたり、

インターネットもなかった当時から、海外の映画スターの

情報通だった。

Yから教わったのが、映画をタダ同然で見る方法だーーー

 

ある日、彼女は、上映前の “プリティウーマン”のチラシを

誇らしげに学校に持ってくると、

休み時間にハガキとカラーペンを、私たちに配った。

 

「はい、これと同じように書いて~ ギア様を見に行こうよ」

と、笑顔で渡された宛名の見本には、“映画試写会係 御中”とあった。

 

私たちは、ギア様(リチャード・ギア)を見たい一心のYの趣味に、

ボランティア協力させられながらも、結果的に当選。

 

ハガキを何枚か書けば、スクリーンで映画を見られる

(こともある)と体感できた。

アナログな方法だったが、欲しいものを得る方法は、

単にお金を払うことばかりではない、

楽しく賢く手に入れたらいいのだ。

 

彼女からは、どういう文脈でそんな話になったか、

思い出せないのだが、

“私、将来は養子が欲しいんだよね”という話も聴いた。

 

これは、私の価値観にもとても響いて、今でも残っていることなので、

またあらためて書いてみたい。

 

ロシア語だって練習すればいい

 

学区外からわざわざ電車通学してきていた、友人A。

音楽一家に育ち、彼女自身もバイオリン奏者を目指していたが、

あえて高校は普通校でのんびり学生時代を過ごしたい、と

本人の希望で、このおだやかな県立校を選んでいたように思う。

 

うちの母は、彼女に初めて会ったとき、

同じ歳にしては言葉遣いがすごい、と圧倒された。

 

日本語の言葉遣いだけでなく、すでに英語も操っていたAは、

ロシア語にも興味を持っていた。

 

面白そうだね、と私が言うと、翌週にはロシア語練習ノート

なるものを買ってきてくれた。

地元の本屋では全く見ないような、専門の研究者が執筆した、

歴史がありそうなノートには、五線がプリントされ、

記号のような文字が繰り返し練習できるようになっていた。

 

おそらく私のやる気が続かなかったのと、彼女が音楽の

レッスンで忙しくなったことで、

ロシア語文字練習は内容が思い出せないほど、わずかな期間で

終わっていったが、いま思うに、そんな趣味に誘ってくれる

クラスメートは凄すぎた。

 

その後もAからは、目からウロコのノートの取り方や、

聞いたことのない本を教えてもらったりした。

 

Aは世界を学び、自分の未来を作ろうとしていた。

 

お土産は、世界の歴史

 

もう一人の印象的な友人といえば、Fだ。

ジャニーズが大好きでよく振付をコピーして踊っていたり、

身体能力が高く、会話の回転も早い、ひょうきんな子だった。

 

そんな彼女からもらった意外なお土産を、私は忘れることができない。

 

冬休みの後だったと思うが、Fが私たちの手のひらに

一つずつリズムよく配っていったのは、小さな石のかけらだった。

 

もらった石はそれぞれ、3、4センチ四方。

遺跡から出土したというには新しく、工事現場で拾ったと言われても

わからなそうだ。

コンクリートのような素材で、大きさと形は少しずつ異なっていたが、

何か文字が書かれた石板が割れたような感じだった。

 

「それ、ドイツ土産」と、Fは何の気負いもなく笑顔で言った。

 

―——ベルリンの壁なのだという。

 

私とYは「へぇ~、すごいじゃん」と一様にうなるばかりだったが、

さ歴史に詳しいAは、現地の状況はどうだったのかなど、

Fに食らいついて聞いていた。

 

東西ドイツを分断していた壁が打ち砕かれたのが、

ちょうどその前年ぐらいだった―――

 

Fは親御さんが科学者か何かだから、興味深い教育を受けて

きたのかもしれない。

卒業後、ダンス留学をしたいとか、したとか聞いた記憶がある。

 

 

雨のヴェネチアでの再会

 

3人の中でその後、私が再会できたのは、Aだった。

 

てっきりロシアへ音楽留学するのでは、と思われた彼女だが、

縁あってイタリアで学び、さらなる縁で現地の人と結婚もしていた。

 

2015年に私がヴェネチア観光することになり、連絡を取ったところ、

Aは冷たい雨の中、小さな子どもを連れて、船に乗って会いに来てくれた。

私たちは明るい雰囲気のレストランで食事をした。

 

当時Aはすでに、イタリア在住20年ほどになっていて、

現地で演奏活動を続けていた。

 

目の前のAは、Aではあるのだけど、そこに居ることが

すごく自然で、落ち着きが感じられた。

 

相変わらず、目立つようなものは身に着けていないけれど、

学生時代ショートだった髪が豊かに伸ばされていた。

 

黒髪を箸一本でゆるやかにまとめ上げ、シンプルな黒いワンピース姿。

手元に彼女の楽器があれば、もうそれ以上のものは必要ないのだ、

という気がする。

 

Aが、高校時代にこまごまと一人、熟成させていた世界への関心。

それをおそらく、イタリアでの生活や他の国々の音楽仲間を通して、

対等に語れるようになったのではないか。

彼女自身の存在が、この地で大きく肯定されたのかもしれなかった。

 

子どもは5、6歳ぐらいの女の子で、とても愛らしかったが、

私とAが話していても、割って入ってきたりせず、

Aも時折、娘に話しかけながらも、必要以上かまうことなく、

私との話に集中していた。

 

 

私たちは、高校時代の話もした。

YやFはその後どうしているか、という話にもなったが、

ヴェネチアのレストランでは、その話は何か遠い感じがした。

 

私も、高校の頃から海外生活への妄想は捨てていなかったが、

まだ踏み出せていない自分の話も少しした。

 

Aは「そうなのね、人生いろいろあるわよね」

と軽くうなずいて言った。

 

「でもまあ、またこっちに来ることがあったら連絡してね」

 

もちろん彼女は私に日本語で話しているけれど、その言葉は

彼女らしく、明らかに小気味よくドライなテンポを刻み、

途中でいつイタリア語に切り替わってもおかしくなさそうだった。

 

それは、私には何だか寂しくもあったが―――

 

船の時間がきて、「じゃあ、またね」と店を出たAを見送った。

 

外はまだ雨だった。

夕暮れ時の冷たい空気の中、Aは小さな娘と傘をさして歩きだした。

私が後ろから写真を撮ると、少しおどけて、娘と一緒に

こちらに手を振った。

 

なつかしいのに、いろんなことが記憶から抜けていて―――

この国をホームとして選んだ友人Aは、私との会話では

その理由だったり困難については、

ほとんど話さなかったし、私もうまく聴けなかった気がする。

 

それでも、彼女と娘が帰り道、ヴェネチアの、昔は宮殿か何かだった

壮麗な美術館の前を歩いていく姿は、私の中で何度も思い出される。

 

彼女はもうあと100mも歩けば、イタリアの古都の街角に

溶け込んでしまう。

 

だけど今でも、その背中はすっきりと潔く―――

在住20年そうして歩いてきたし、明日も歩いていくことを

見せてくれるのだ。

 

 

*長文読んでくださり、ありがとうございます。2部構成も考えましたが、記憶の中でどうも分かち難く、このようなスタイルになりました。