narrative voyage ~旅と今ここを見つめて

多様な世界を感じるままに。人が大切な記憶とつながっていくために。

この空の向こうに⑭ ~ジャズ・バーとレモンの木に見る50年

 

「個人的に強く反対しています」

今週初め、作家の村上春樹さんが、東京・明治神宮外苑地区の

再開発について、自らがディスクジョッキーを務めるラジオ番組で、

語ったことが、ニュースで流れた。

 

「緑あふれる気持ちの良いあの周回ジョギングコースを、

そしてすてきな神宮球場をどうかこのまま残してください」

「一度壊したものってね、もう元には戻りませんから」と作家は言った。

 

外苑のジョギングコースを愛用していたこと、神宮球場でかつて自分が

作家になろう、と決意したこと―――

彼がそんな個人的な思い出のために、残したいと言っているように

聞こえる人も、世の中には少なくないかもしれない。

 

けれども、

「一度壊したものってね、もう元には戻りませんから」———

 

作品の中でも、日常が日常でなくなる主人公を頻繁に描いてきた

村上さんのこの言葉は、重大な危機感をもって感じられた。

 

私にとっても、この再開発計画は、東京という街から

緑の塊が消えてしまう以上の、何かやるせなさがあり、

今回のニュースについて何か書きたいと思いながら、

肝心な自分の思いをすくいきれないまま、今週が1日ずつ過ぎていった。

 

lithub.com   
アメリカの著名な出版者や雑誌編集者協会の殿堂編集者による、
文学サイト”LIT HUB”でも、このニュースは早急に報じられた。
 

ところが、今朝になって、TVであるドキュメンタリーを観るうちに

その中の女性が語る言葉に、耳を奪われた。

 

舞台は仙台の定禅寺通りで、50年以上続いてきた老舗ジャズ・バー”KABO”。

新宿のジャズ喫茶でアート・ブレイキーのレコードを聴いたのを機に、

お店を始めたというご主人の遠藤雄三さん。

そして、二人三脚で店を切り盛りしてきた奥さんの幸子さん、

常連のお客さんが、店の歩みを語ってくれる。

 

仙台は、初めて知ったのだが、毎年大きなジャズイベントが

開かれるジャズの街なのだった―――

市民バンドも盛んで、この店でも、昼間は医療関係で働きながら、

演奏の練習を重ね、ステージにこぎつける人もいるという。

 

そんな熱心なアマチュアから、キース・ジャレットをはじめとする

海外のプロまでが、夜ごとに演奏を展開、

1968年から続いてきたジャズ・バー。

 

「店をやっていて嬉しかったことは?」と聞かれ、

幸子さんの顔が満足そうにほころんだ。

 

「来店した方に、”床・天井・壁に、これまで演奏してきた

ミュージシャンの音が浸み込んでいる”と言われたこと」

それが何より嬉しかったのだと、彼女は答えた。

 

www.yomiuri.co.jp 

こちらの記事では”ジャズ喫茶”と記載されていますが、当ブログでは

本日観たNHKの「小さな旅」での紹介にならって、KABOは”ジャズ・バー”としておきます。

 

”床・天井・壁に、これまで演奏してきた

ミュージシャンの音が浸み込んでいる” ———

 

その年月、残ってきた床・天井・壁があるから、

その場を残してきた人がいるから、浸み込んだ音を今も感じることができるのだ。

 

東京・外苑の開発をめぐって、“緑が惜しまれる”どころではなく、

“悔しい”と感じるのは、

東京は“浸み込んできたもの”を捨てようとしているからだ。

 

悲しいのは、人々のそこで過ごしてきた時間や記憶が、失われようとしているからだ。

 

その開発という行為を行おうとしているのは、同じく”人間”である―――

 

一方、人間は木を植える活動もする。

 

ジャズ・バーのドキュメンタリー番組を見終わって、

ふと手元を見ると、読みそびれていた地域の情報誌に

「50周年」の文字が大きく書かれていた。

 

ジャズ・バーと同じく、創立50年となった地元の小学校があり、

記念式典を行った、という記事だった。

 

子どもたちは記念に、レモンの木を植えた。

 

そこに込められたのは、次の50年につなげる、という思いだという。

 

6年生が代表として、その木に水をやり、

「卒業しても元気に育ってほしい」

「たくさん実がなってほしい」と話した―――

 

その思いに、私たち大人はどう応えられるだろう。

 

レモンは充分な大きさの、味の良い実ができるまでに、

5年ほどかかるそうだが、

環境と適切なケアがあると50年、100年生きたりするという。

 

時は様々なものを育てていく。

人はその育ったものから、様々なことを感じ、ひらめきを得る。

 

ジャズ・バーKABOの遠藤さんが、55年前、新宿のジャズ喫茶で

自らも開店することを思いついたように。

村上さんが、45年前、神宮球場で作家になろうと決心したように―――

 

子どもたちが、育ったレモンの木を見て、自分たちのこの先を描ける。

 

そんな世の中であってほしいと願わずにいられない。

 

 

rief-jp.org 

日本の金融機関のESG(環境・金融・ガバナンス)活動の情報発信、

研究活動を行う団体「環境金融研究機構」の記事。

今回のニュースへの俯瞰した視点と、村上作品への期待も込めたまとめが光る。