narrative voyage ~旅と今ここを見つめて

多様な世界を感じるままに。人が大切な記憶とつながっていくために。

新緑の公園で、白い杖のおじいさんと歩いて。

 
先月ガイドヘルパー資格を取ったのは、車椅子の方の支援のためでしたが―――
資格取得という行動に踏み出せた後、不思議な出会いがありました。
 
*****
 
4月もあと数日という、ある日の午後。
 
1ヶ月ぶりに行った公園の色が、一気に緑になっていた。
入口で思わず見上げて写真を撮っていると、公園の中から呼びかけられた。
 
「すいません」
 
声の方向を見ると、おじいさんがこっちを向いて立っている。
私の周りには誰もおらず、明らかに聞かれているのは私だった。
 
「区役所はこの道を行けばいいんでしょうか。ちょっと分からなくなってしまいまして」
 
何か申し訳なさそうな響きを感じて、動いている彼の手元を見ると白い杖が握られている。視覚障害を持ったおじいさんだった。
 
彼が”この道でいいんでしょうか”と示した方向は、公園をどんどん離れようとしていた。区役所を背にして遠ざかっていたのだ。
 
私はあわてて彼の近くへ行き、区役所のある方向を見ながら、
「区役所はあちら側なんです」と指し示した。
おじいさんは 驚いたようだった。
 
「ほう、そうなんですか」
と言いながらそちらへ向き直り、
こりゃ、道理で着かないですな、とつぶやいた。
 
私は「一緒に行きますよ」と言った。
 
「申し訳ないです、いいんですか?」
とおじいさんは言った。
 
私は聞かれてもいないのに、
「この辺りの人間じゃないんですが、今日は近くのクリニックに来てまして」と言った。
 
ちょうど区役所の方向にあるパン屋にいくところだった。
「大丈夫です。同じ方向に行くところなので大丈夫ですよ。一緒に行きましょう」
 
そう声がけして おじいさんと並んで歩き始めた。
 
おじいさんはもう一度、「すいませんね」と言いながら歩き始めた。
 
風薫るような空気。
新緑が眩しい公園だった。
他の人からは、私とおじいさんが普通に散歩しているように見えただろう。
 
路面は、何度も補修が繰り返されたようで思いのほか凹凸があり、道自体も直線距離なら300メートルもなさそうだが、何だかおしゃれに曲がりくねっていた。
 
おじいさんは、白い杖の他には小さなショルダーバッグのみ、という身軽な様子だ。
でもなんとなく体つきも細く、足元もゆっくりだった。
 
こういう時は視覚障害の人に私の腕につかまってもらうのが良い、とされていることをすっかり忘れ、私はおじいさんの手を取って歩いていった。
 
おじいさんは、
「私はもう90ですが、お嬢さんに手伝ってもらって、申し訳ないですね」
と少し笑った。
 
「周りの様子はなんとなく見えてますか?」
 
白い杖をついていても視覚障害のある人の見え方は人それぞれ、と聞いていたので、思い切ってたずねてみたが、おじいさんははっきりと首を振った。
 
「いやあ、見えてないです」
 
それは若干のさびしさもありながら、潔さも感じさせた。
 
「もう90です。戦争もありましたよ」
 
私は、そうなんですね、としか返せなかったが、
歩くごとにおじいさんの記憶はさらに鮮明になるようだった。
 
「このあたりはずっと住んでますけど、昔は焼け野原だったですよ」
 
今日のこの公園は、犬が散歩し子どもたちが走り回り、昼休みのサラリーマンが一休みする、どう見ても普通の地域の憩いの場だ。
 
半分信じがたいけれど、握っているおじいさんの手には変な力が入ることもなく、足取りも止まったりすることはなかった。
 
私は出会って数分で、横浜のとある地域と、一人の人の歴史を聴くことになり、そうなんですね、とひとまず受け止めるより他なかった。
 
「戦争を越えてきてますもんで、花火も怖いです」
とおじいさんは淡々と言い、歩き続けた。
 
とにかく安全に道案内しないと。
そう思って私は、ほとんど前方と自分たちの足元しか見ていなかったが、花火の話には感覚も思考も、ぐいっと持っていかれる感じがした。
 
上空で戦闘機が飛び交った日。
焼け野原になった町。
そして戦後、花火はきっと人々の楽しみだったはずだが―――
 
私が、「そうですよね、それはやっぱり音が怖いですよね」
とあらためて感じた限りを伝えると、おじいさんは何度もうなずいた。
 
この時、私は、戦時中の爆音と花火の破裂音が重なって怖かっただろうと想像したのだが。
おじいさんがすでに当時から視力を失っていたとしたら、音とわずかな光を頼りに、戦争という未知のものと、ひとり戦ってきたのかもしれず―――
 
気づくと私たちの上に、また太陽の光が戻ってきていた。春にしてはまぶしい光だ。
濃い緑の公園を通り抜け、区役所はもう目の前だった。
 
「もう区役所ですよ。入口まで30メートルぐらいです」
 
そうお伝えすると、こんな最後になって、握っていたおじいさんの手が温かく感じられたが、もう目的地到着なのだった。
 
「着きましたよ」
 
おじいさんを建物の中にお連れし、入口で案内していた女性に、後を頼んだ。
 
区役所に着くまで、何度ありがとう、すみませんを繰り返しただろう。
最後、おじいさんは笑顔で、頭を下げながら
「本当に何とお礼を言っていいか」と言った。
 
私は「大丈夫ですよ。じゃあ、お気をつけて」 と言って、少し急ぎ気味に外へ出た。
 
お礼を言いたいのは、私のほうだった―――
 
先日取ったのは車椅子のガイドヘルパー資格だけど、早速こうして案内させてもらう機会をもらった。
案内するまで全く知らなかった、視覚障害のある人の感じ方や、生きてきた道のりを、一人のおじいさんに教えてもらった。
 
こちらこそ、ありがとう、だ。
これからもきっとガイドを通じて、いろんな人に出会っていくことになりそうだ。
 
予定通りパン屋で買い物をした。
さっきの公園にもう一度向かい、木陰だけど明るいベンチを見つけ、買ったパンを広げ、少し遅いランチをする。
 
目の前では、中学生ぐらいの少年たちがバレーボール。遠くには、小さな子どもが乗るブランコが揺れていた。